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ノスタルジーの煮込み #1

「ノスタルジーの煮込み」
 
 溝ノ口の夢をよく見る。

 夢で見る街は現実とはまるで違い、駅前の大きなデパートやロータリーもなければ、車も走っていない。満員の電車を降りて改札を出るとサッカーコートほどの野っ原が広がり、無機質な灰色の建物が無表情でそれを囲んでいる。

 この夢を訪れるのは決まって夜なのも不思議だ。私は毎度明かりのない真っ暗な街の中で目を凝らし、昔住んでいたアパートを必死に探すのだった。

 しかし、今私が訪れた街はまぎれもなく高津区にある現実の溝ノ口だ。

 東急田園都市線、溝ノ口駅の東口改札を抜けると、地上から五メートルほどの高さがあるデッキの上に出る。真夏の太陽がジリジリと辺りを照らし、白を基調としたデッキや鉄の手すりが陽の光を反射するものだから、眩しくてつい目を細めてしまった。その向こうでは相変わらずデパートをはじめとした大きなビルがそれぞれ、晴れやかな青空を背にして天へと伸びていた。

 この駅を降りるのは六年ぶりになるかもしれない。細かな変化は勿論あるだろうが、駅前の景色は時間の流れを感じさせず、記憶にある街並みのまま私を出迎えてくれた。平日で尚且つ気温がピークの時間帯なせいか駅前の人通りは少なく感じたが、それでも夕方を過ぎれば帰路につく学生や会社員で混み合い、ストリートミュージシャンやダンスの練習をする若者も現れるだろう。

 昔の記憶を目の前の景色に重ねながら、私は左手に進みそのまま階段を降りた。時計を確認すると、約束の時間までまだ余裕がある。あまりの暑さに先に店で待っていようとも一瞬考えたが、思い出を更に拾い集めたい気持ちにかられていた私は、懐かしい街へと足を踏み入れる事にした。

 唐揚げが無料のラーメン屋。朝まで過ごしたカラオケ。小道具を探しに行った量販店。差し入れに利用したドーナツ屋。ずっと通ってた美容室——。

 当時私の生活の一部となっていた店舗と再会する度に、それらに付随する様々な記憶がまるで昨日のことのように浮かんできた。中には思い出すだけで頭を抱えたくなるくらい恥ずかしいものもあれば、つい悲鳴を上げたくなるほど苦々しい記憶も顔を出す。それでも時間の経過は余計な棘をヤスリ掛けしてくれている様で、当時よりも抵抗なく、私はそれらを一色単に良い思い出として受け入れられるのが何だか面白い。

 思いの外変わらない街の様子に、少しくらい自分は大人になれたかな、なんてセリフめいた言葉が浮かぶ。何の気なしに呟いてみたのだけど、自分には似合わないあまりのキザったらしさに身が悶えてしまい、すぐさま後悔した。

 日陰を選びながらそんな時間旅行を楽しんでいると、先程とは異なる作業的な振動がシャツの胸ポケットを揺らした。取り出して確認すると、メッセージが一件届いている。

 〈ちょい早く着いたから、先に入って待ってるよ。二階の奥のテーブルにいる。ってか今のところ俺しかいないけど。生で良い?〉

 私は簡単なメッセージを返すと大きく息を吸い、自分の尻を軽く叩いて待ち合わせ場所への一歩を踏み込んだ。

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